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火の車 [言葉]

いえ、我が家は特にいろいろと困っているというほどではないです^^;。多少は困ってるけど^^;。どうもこの言葉は「家計が」とか「予算が」とかと対になって出てきますが、要は「お金が足りなくて」という状況を言う言葉です。どうして「火」と「車」が合わさって「お金が無い」ということに繋がるのかは、今ひとつ分からないのですが。「尻に火がついて」という言葉もあるけど、関連ありそうかな。

なんでこんな話をし始めたかと言えば、ちょっと詩人草野心平さんのことを調べていたら、「「火の車」という焼き鳥屋をやっていたことがある」ということが判明したから。こんな名前をお店に付けちゃっていいんだろうか、と思いますよね。まぁ「炎」からの連想としては判らなくは無いんだけど。

Creamという英国のバンドがありますが、彼らは「Wheels of Fire」というタイトルの傑作アルバムを作っています。バンドとしてはすでに「崩壊」の前兆があった頃ではないかと思いますが、アルバムは(本来は2枚組、日本では初出時にはスタジオ制作盤とライブ盤に分けて1枚ずつ発売された)大作ではありますが、特にスタジオ制作の部分は大変良く作られた出来になっています。

この「Wheels of Fire」という言葉の本来の意味がもうひとつよく分かりません^^;。調べてみても「クリームのアルバム」なんて説明されていたりします。おいおい。どうも語感からは「しゃかりきになって」「気合いを入れて」といったような感じもするんだけど。日本での「火の車」とは違うみたいです。複数なんで両輪共に(四輪共に)燃えているんだろうなぁ、とか根拠は無いけど想像はしてみたりもしますが^^;。正確な意味は知りたいものだと思います^^。
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鼻濁音の話 [言葉]

某国営放送のニュースの時間に、原稿を読んでいるのを聞いていると、ごくわずかなんですけど、違和感を感じることがあります。ガ行の音の「鼻濁音」と言われる発声でのことです。つまりある程度は訓練を受けているとは思うのだけれど、時としてなんか「違う感じ」がつきまとうのです^^;。

専門的な音声学と言った方面からの発言はできませんから、あくまで「聞いた感じ」の話なんですけどね。ニュースというものは、当然ながら「生放送」なわけで、発声してしまってからでは直せませんし、そういう意味ではまことに危ういものも抱えています。それを承知で申し上げるのですけれど、時々ですが「違う」^^;。

鼻濁音と非鼻濁音の使い分けは、これまたなかなか一筋縄では行かないものがあるそうで、けっこう厳密なものなのだそうです。なおかつ「日本語」の中でも、実は半分ほどの地域でしか鼻濁音が使われておらず、さらに言えば厳密さを要求するのは、いわゆる「東京語(とその周辺)」でのことらしいのです。

ごく個人的な感覚で言えば、語の頭に来ないときは鼻濁音にする感じ、なのですれど。あと外来語はすべて非鼻濁音でいいんじゃないか。それと漢語は比較的鼻濁音の比率が低いんじゃないか。和語は鼻濁音が多くなる。というようなことを、自分で口で言葉を発音しながら考えていたら、カミさんが口を挟むのでした。

「それじゃつまりガンダムは鼻濁音じゃないわけよね」。そりゃあね、間が抜けるしね。「ええと、あとあの発音がちょっと難しいヤツ」。ああ、ズゴッグとか?ホントはズゴックなんだけどね。ゴッグはゴッグ。あれは語尾が濁る。「それそれ。とかなんだっけ、真壁さんの?」。マクベね、マクべ。ギャンです^^;。「でも、あの人はギャンって鼻濁音で言ってたような」。

とんだところに話が行ってますが、塩沢兼人さんは確かに鼻濁音で「ギャン」と発音していたようにも思います^^;。あのキャラの性格付けからなのかも知れないけど。ちなみに制作会社の意向で、いわゆる「ロボットアニメ」の主人公ロボットには、必ず濁点が入っているネーミングになってます。理由は「強そうに響くから」。

それを知ってか知らずか、ほかの制作会社が作った大傑作シリーズには、濁点が入りません。それは「マクロス」のネーミングについて。意識してるんだろうなぁ、やはり。とまぁ、いろいろなことを思ってしまったニュースの時間なのでありました^^。

12という数字の話 [言葉]

12月も半ばにさしかかってくる頃となりました。一年が12か月というのは、おおむね月の満ち欠けに基づいたものであるのは知られています。洋の東西を問わず、と言いたいところですが太陰暦の大もとは、そもそもエジプトからであるようです。

古代中国で用いられていたものも、独自に月の満ち欠けに基づいたものを発明(経験則の積み重ね)したものだと思うけど。相当昔から東西の交流はあったようなんで、はっきりしませんね。とにかく夜空を観察していて、月のようすを見ていれば、30日に少し満たない日数で大きさが戻るというのはすぐに気づいていたでしょう。

それがおおよそ12回巡れば、同じ季節がやってくるというのも気づくのは早かったはずです。農耕民族ならなおさらですね。そうして、「12」という数字はある種の神秘性というか神格を帯びたのではなかろうか、と思うわけです。1日が12時間かける昼夜という発想もそこからなんでしょうね。

そこへいくと日本は大ざっぱに時刻は「六つ」までなんだけど、これも一昼夜を12で割っていると言えるのかな。そこまで根拠があるかは分かりませんが^^;。仏教的には「十二神将」っていうものがありますけど、「十二使徒」と発想的に親戚筋なのかどうか。十二神将は方位(すなわち十二支)との関連が密接なようですが。

西欧でも「12」はある種の神聖なものであったでしょうね。三位一体と四方位(東西南北)をかけ合わせた数字である、という点も考えると。そんなことをつらつらと考えてしまうのも、師走の季節感が成せるところではあります。一部では「13か月暦法」というものも考えられているそうですが。ひと月28日として13か月プラス1日。わりと合理なようでいて、実は季節と合致しにくいという欠陥はあります。

というところまで考えてきて、突然頭の中で「ストライクウイッチーズは11人」という雷鳴が轟きまして^^;。まぁ正確を期せば「10人プラスひとり」であるわけだけど。それやこれやで劇場版では静ちゃんをひとり追加して、12人ということにした、わけは無いね^^;。おそらくは違いますね。むしろ足したのはハイデマリーの方かな^^;。

ないものはあるでしょう、の話 [言葉]

「ないものはあるでしょう」と言うのは、鴻巣友季子さんのエッセイに出てくるエピソードから。ひと様のエッセイのネタからブログの記事を書こうという^^;。鴻巣さんが5歳の娘さんと一緒にレンタルビデオ店に行った時のこと。ディズニーのプリンセス・シリーズは全部あるのかな、と尋ねられた鴻巣さんが、「そりゃ、ないものはあるでしょう」と答えたら、娘さんが大笑いしたらしいのです。「ないものがあるなんて」という子供としての感覚から笑い出したのでした。

なかなか哲学的かも知れませんね、「ないものがある」って。英語の表現でも「There is nothing」というわけで、「ナッシングのものがある」という言い方になる。「あるものはない」はあり得ない、かな?状況を作り出せばあり得る気もしますが。

思い出したのは「進めは止まれ」「止まれは進め」。ラーメンズの演目のひとつの中で、小林賢太郎が片桐仁に向かって仕掛ける思考実験と言うか頓知と言うか^^;。十字路の信号の片側が進めになっていたなら、もう片方は止まれになっている。だから「進めは止まれ」。

まぁ、この場合たとえば五叉路や六叉路や変則の十字路(交差道路がちょっと左右にずれてるヤツ)での信号の「進め止まれ止まれ」や「止まれ進め止まれ」みたいな例は、とりあえず放置したまま話は進行しています。これも話に含めると、なかなかめんどくさいしね^^;。

ちなみに小林賢太郎さん、「コバケン」と呼ばれることもあるようです。私としてはあちらのコバケンさんこと指揮者の小林研一郎さんを連想してしまうのですが^^;。私はこのふたりを対談させてみたいものだ、とかねてから思っているんですが、どなたかセッティングしてくれないもんでしょうか。ちなみに対談のテーマは「戯曲と音楽における饒舌さについて」。

閑話休題。「ないものはあるでしょう」という日本語は、やっぱり日本語的言い回しなんでしょうか。それとも英語の概念が入ってきてからの、比較的新しい感覚からの表現なんでしょうか。江戸庶民の会話が想像の中でしか聞けないので、はたしてその頃の人々が「ないものはある」と言っていたのかはわかりません。

でも「There is nothing」の言い回しと「ないものはある」という表現とは、意味の上でも表現上でもよく似ている感覚だと思います。日本語が独自にこの表現を手に入れていたのだとしたら、洋の東西でよく似た発想があったと考えると、面白いものですね。翻訳からの表現(明治以降に拡張された日本語表現)である可能性も、充分あるんですけどね^^;。

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