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ないものはあるでしょう、の話 [言葉]

「ないものはあるでしょう」と言うのは、鴻巣友季子さんのエッセイに出てくるエピソードから。ひと様のエッセイのネタからブログの記事を書こうという^^;。鴻巣さんが5歳の娘さんと一緒にレンタルビデオ店に行った時のこと。ディズニーのプリンセス・シリーズは全部あるのかな、と尋ねられた鴻巣さんが、「そりゃ、ないものはあるでしょう」と答えたら、娘さんが大笑いしたらしいのです。「ないものがあるなんて」という子供としての感覚から笑い出したのでした。

なかなか哲学的かも知れませんね、「ないものがある」って。英語の表現でも「There is nothing」というわけで、「ナッシングのものがある」という言い方になる。「あるものはない」はあり得ない、かな?状況を作り出せばあり得る気もしますが。

思い出したのは「進めは止まれ」「止まれは進め」。ラーメンズの演目のひとつの中で、小林賢太郎が片桐仁に向かって仕掛ける思考実験と言うか頓知と言うか^^;。十字路の信号の片側が進めになっていたなら、もう片方は止まれになっている。だから「進めは止まれ」。

まぁ、この場合たとえば五叉路や六叉路や変則の十字路(交差道路がちょっと左右にずれてるヤツ)での信号の「進め止まれ止まれ」や「止まれ進め止まれ」みたいな例は、とりあえず放置したまま話は進行しています。これも話に含めると、なかなかめんどくさいしね^^;。

ちなみに小林賢太郎さん、「コバケン」と呼ばれることもあるようです。私としてはあちらのコバケンさんこと指揮者の小林研一郎さんを連想してしまうのですが^^;。私はこのふたりを対談させてみたいものだ、とかねてから思っているんですが、どなたかセッティングしてくれないもんでしょうか。ちなみに対談のテーマは「戯曲と音楽における饒舌さについて」。

閑話休題。「ないものはあるでしょう」という日本語は、やっぱり日本語的言い回しなんでしょうか。それとも英語の概念が入ってきてからの、比較的新しい感覚からの表現なんでしょうか。江戸庶民の会話が想像の中でしか聞けないので、はたしてその頃の人々が「ないものはある」と言っていたのかはわかりません。

でも「There is nothing」の言い回しと「ないものはある」という表現とは、意味の上でも表現上でもよく似ている感覚だと思います。日本語が独自にこの表現を手に入れていたのだとしたら、洋の東西でよく似た発想があったと考えると、面白いものですね。翻訳からの表現(明治以降に拡張された日本語表現)である可能性も、充分あるんですけどね^^;。
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